追記:
ここでの体験を元に、勘違いの仕組みに興味を持つようになり、OISTでそれ関連の認知科学分野のことを勉強することになった。
*
うちの医学部には、1年生の夏休みの1週間を取り上げて、医療施設に実習に行かせるEEP1(Early Exposure Program)があります。
正直に言うと、だるかった。
他にやりたいことがあるのになぜ今。しかも病院じゃなくて老健(志望理由をちゃんと書かず第1-5希望全落ちした自分が悪かったが^^;)。
まあ、せっかくいくんだから、費やした学費と時間にふさわしい学びを得て帰ろうと、コンサルの気持ちに切り換えて行ったら、思いのほか収穫が多かった。
*以下、先方に提出したレポートを改修したものなので、真面目な内容になっています。
6日間に渡る実習は、僕の人生観を変えたほどの衝撃を与えてくれた。
まず、高齢者の方々とのコミュニケーションは、その具体的な内容以上の意味をもたらした。一番印象深い、2 階の女性利用者様 Y さんとの触れ合いをここで紹介したい。
(機会あればまた3階の利用者Kさんについて書きます)
最初に Y さんと目があった時に、Y さんは僕を手招いた。僕はそれに従って行ったが、いきなり手首をがっしりと掴まれた。
「家に返してくれ」
と、Y さんは細い目で僕を見つめ、悲しい声で僕に訴えかけた。
どういうことかわからず、僕は Y さんをデイケアの利用者だと思って、「まだですよ」「午後になると家族が迎えにくるよ」ととりあえずなだめてみたが、Y さんは反応することなく、「帰りたい」との一点張りだった。
「どこに帰りたいですか」「実家はどこですか」「家族はいらっしゃいますか」などと問うたが、「わからない」と。
事態の不自然さに気づいた僕は、通りかかりの職員に助けを求 めたところ、Y さんが重度な認知症であることがわかり、「帰りたい」という言葉自体に意味はなく、ただの不安の表れだと教わった。トイレにいても、「トイ レに行きたい」と言ってしまうほどだったとのこと。軽く話題を逸らす程度の 話だけして、なるべく関わらないようにした方がいいとも言われた。
僕は掴まれた手首に残された赤い跡を見て、そうするしかないかなと思った。
しかし、何かできることはないかとの同情や悔しさと、Y さんそして認知症に対する純粋な好奇心から、僕はその次の日も Y さんと会話した。
先日学んだユマニチュード (仏:humanitude) を用いつつ、身の上について色々とお話した。 帰りたい「欲求」を嘘で一旦満たし、3 桁の数字を覚えさせてみたが、Y さんは それを一分足らずにもう忘れてしまった。
話は五分ごとにループして行った。Y さんの感情もループしていた。
最初はお強請りするように、次は怒り気味に、最後は悲しさと寂しさに襲われ、うつ伏せになって涙を流した。
全てが Y さん の勘違いとかではなく、本気にそう思っているように思えた。
僕にはもうどうしようもなかった。見えている世界が違った。しかし、Y さんが 底知れぬ精神的苦痛を味わっていることだけは明白に感じ取れた。どこに、い つ、どうやって帰るかはわからない、ただただ帰りたい。まさに「認知の奴隷」 だと思えた。Y さんが見ているであろう景色をイメージするだけで、気が狂うような絶望を感じた。
*
僕は認知症の厳しい現実を目の当たりにした。
「見える世界が違う」ことほど解消しがたギャップはない。
全ての介護、特に認知症の介護の核心には心への寄り添いがあるとユマニチュードでは説明されるが、現場の職員たちが様々な仕事に忙殺されているのを見ていると、利用者と「おしゃべりする」ことはもは や贅沢としか言えない。
また、施設長との話で、認知症は今の所完全に予防・ 治療されることはできない、進行を遅らせることしかできないことがわかった。
どうすればいいのか。考えられる方法はいくつかある:
1 と 2 については、これから勉強していく。
3 について、3 つのアプローチが考えられる:
1は正直、改善の余地がほぼ見当たらない。さすがだなと思った。必要最小限の人的リソースをフル活用していた印象がある。
それでも改善できる箇所はいくつか考えられるが (自動脱衣、自動お茶出しなど) 、もともと少ないヒューマンインタラクションを剥奪してしまうと本末転倒なので、なかなか難しい。
しかし、工数とコストの面では2より優れているため、管理者層における需要は高いだろう。
2については、入浴介助の時に職員の方にこう言われた。
「入浴介助はパイプライン処理のようで、A がこの仕事を終えたら次はあれだな、と B が察してすぐに 動けると仕事は早い。しかし訓練が必要で、人手不足の中ではまず質より量たから仕方ないよね」と。
介護の仕事がハードなために国内のなり手が減り、それで海外からなり手を「輸入する」という国の方針が近年物議を醸しているが、 現場を見ると必至のことだと思わざるを得ない。
ただ、数を確保しつつ、新しいなり手の教育を全て現場に任せっきりにするのではなく、計画的で組織的な研修などの教育を国や自治体などがサポートする体制を整備することが必要で、さもなければ数があるだけで質は低く、返って現場に迷惑をかけることになる。
また、②は①の裏返しでもある。必要最小限の「必要」には、どうやら「おしゃべりする」ことは入っていないようだ。
ユマニチュードを重視しているにも関わらず、実践を現場に任せっきりの管理者層のやり方には賛同しかねる。
本当にユマニチュードを実装したいのであれば、①と②に加えて、職員の工数管理・インセンティブ・評価システムなどの経営サイドの見直しも不可欠だろう。
3について、後々調べたところ、ある英ベンチャーが認知症患者を対象に、懐かしの風景などをコンテンツに含んだ VR サービスを提供していることを知った。
1と2ではあくまで患者とのヒューマンインタラクションを絶対視したが、そのインタラクション自体がかなりストレスになる(10代の我々が3時間の「フリートーク」でもかなり精神的にやられた。家族もだんだん会いに来なくたるらしいから察しがつく)ため、結局のところ1と2が解決策として不完全な可能性がある。
もし3がヒューマンインタラクション同等あるいはそれ以上の効果をもたらしてくれるのであれば、介護の現場に導入 しない理由はないだろう。
以上、僕は主に認知症にフォーカスしたが、心の満足度を上げる困難は比較的健康な高齢者の場合にも通じる。
デイケアの利用者ならまだ家庭というコミュニティの温もりを感じることが多いが、入所者の場合だとそれすらない。同じテーブルの利用者同士でも滅多に話さない。スマホはもちろんのこと、テレビも見ない。本も読まない。ただただ座って、虚ろな目でどこかを眺めている時間が圧倒的に長い。若い僕と違って、実際高齢者はそれでいいと思っているかもしれないが、話しかけるとみんな大体嬉しいから恐らく違う。
馴染みのあるコミュニティから切り離され、新しいコミュニティにも馴染む気配も気力もなさそうだが、コミュニケーションは欲しい。そのジレンマを抱えたまま最後の時間を過ごすのは、少なくとも僕は嫌だ。
2 階が幼稚園で 1 階が老人ホームになっている施設もあるらしいが、そのような WIN-WIN なコミュニケーションの場を設 ける努力はこれからの社会にとって不可欠だろう。
僕はいわゆる「お医者さん」になるので、介護老人保健施設で働く可能性は小さい。もしかしたらこれが人生で最初かつ最後の体験かもしれない。
しかし、意味はあった。
QOL の向上にとって、身体機能の維持・向上以上に、心に寄り添え、「人間として生きる喜び」を日々の生活で実感させることの重要性を、そし てのその難しさを、実体験を通じて学ぶことができたからだ。
将来医療に携わる人間として、これ以上の収穫はないだろう。
最後に、この機会を提供してくださった学校と関係者の皆様に感謝を申し上げたい。
(実習内容が済むと早めに切り上げてくれた担当者にも感謝です)